【ボケからオトボケへ】 おっさん語録/いいさ〜。/「美」術というものは存在するのだろうか。原山尚久 随筆
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ボケからオトボケへ
ぼくのボケはじめは、
多分ポツダム宣言の下される直前の、
あの白い道を歩いているときだったような気がします。ボケたのは老人になってからでなく、
四〜五歳の幼児期であったろう。
その後は、
学生になったり社会人になったり、
家庭人になったりしたけれどボケているから、
いたるところで失笑を買い、
文句をつけられ、
軽くみられもしたけれど、
よく考えてみたら五十代ボケはじめはとうのむかしに卒業していたのですね。
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自己の内なる悲哀や苦しみや、
あるいは喜びや達成感みたいなものは、
それをみている自分が、
自分によって見られている自分だ、
というのは確かにあって、
その結果どういうことが起きるかたというと、
苦しみとか楽しみとかいうものが
さっと消えてしまうという現象が起きる。
(内的現象。こころのなかの動きだから誰にもわからないけれど)
これがボケの内的必然性(カンディンスキーみたいになってきましたが)。
このボケをネガティブにみるのが娑婆というやつでして、
世間とか社会とか、
あるいは関係性のほとんどから身をひいてしまえば、
この自己の内部に生起する奇妙な現象は、
齢相応の「権利」だ!などと舞い上がってしまうのは、たといボケからでた言説であったにせよ、
いかがなものかと思います。
しかし権利はいずれにせよぴったりこない。
ボケは、つまり余人にはうかがえ知れない安心感と考えてもいい。
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ところで、
ポツダム状況をひたすらボケ続けてきたぼくは、
とうとう想像したこともない六十歳代に突入しておりました。
いつ六十になったんだろう。
そうなったからといって赤飯炊いてお祝いされた記憶もない。
二〇〇四年で六十四。
ここまでくれば、せっかくですから
丁寧語の
「お」
をつけるべきでしょう。
どなたでも六十を過ぎたら
「オトボケ」
という高度な精神状態へ、
縁覚へ、
つまり人生最高の、
いや、
最期の処世の術を身につけたということになります。
それは
「三途の川」
の中洲にとりあえず腰をおろしているようななものでしょう。
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